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 マクモニーグルの透視の世界 #1

ターゲット:奈良県桜井市 箸墓古墳

透視日:2007年9月17日 

手法:サイコメトリー 

       

この透視は、邪馬台国と卑弥呼の調査を行っている時に補足的に行われたものである。

この日、近鉄線・伊勢志摩ライナーに乗車した一行は、大和八木駅で下車し、タクシー二台を借り切った。最初の調査地である巣山古墳へ向かうよう運転手に頼んだ。車は順調に走り始めたが、思ったよりも距離がある。なかなか巣山古墳には着かない。

やがて私の目に、見覚えのある風景が入ってきた。リチャード・ギア似?の運転手が我々を連れてきた先は、巣山古墳ではなく纏向の箸墓古墳だった。なんと運転手は、何故か巣山古墳を箸墓古墳と勘違いしてしまったのだ。

箸墓古墳は、桜井市の纏向遺跡の中にある墳長278メートルの巨大な前方後円墳である。伝承では、倭迹迹日百襲姫命の墓とされるが、この古墳こそ卑弥呼の墓の本命だと邪馬台国畿内論者の多くが考えているのだ。

こうして、不思議な事だが、偶然にも卑弥呼の墓の最有力候補地として名高い箸墓古墳を調査することになった。勿論、全くの予定外の事で、箸墓古墳は調査予定には入っていなかった。

私は、以前にも箸墓古墳を見に来た事があった。しかし、せっかく偶然にも箸墓古墳に来たのである。取りあえず車を降り、箸墓古墳の写真を取りに向かった。スタッフの中には、ここを巣山古墳と勘違いしている者もいるようだ。

私が、真夏の日差しの中を歩いていくと、マクモニーグルも後ろから付いて来た。私は、彼にこの古墳は巣山古墳ではないと告げた。更に、この古墳は我々がターゲットとする人物の墓の最有力候補として名高いが、調査予定には入ってなく運転手が間違えて連れてきた事も告げた。

やっとマクモニーグルにも状況が読めたようだ。すると、興味深そうに周囲を探索し始めた。マクモニーグルは、1人で箸墓古墳の周囲をうろつき始めると、古墳の斜面に手を当て、静かに目を閉じている。透視を始めているようだ。

しばらく、場所を変えながら同様のしぐさを繰り返していた。やがて、マクモニーグルは戻ってくると、私に告げた。「この古墳は、ターゲットのものではない。もっと古い」

私はこの時、マクモニーグルが、その場で遠隔透視が可能なのだと思った。これが遠隔透視ではないと、教えられたのはずっと後のことだった。彼が現地で行う、このような透視は、遠隔透視とは全く異なる。彼は、透視対象に直接接触しているのだから、遠隔透視の大原則であるブラインド状態にないのだ。

彼は、これにもし呼び方をつけるとしたらサイコメトリーだと言う。いわゆる多くの透視能力者が行っている、残留思念を読み取ると言う方法である。

とにかく方法は如何であれ、彼は箸墓古墳を透視した。しかも彼は、箸墓古墳が卑弥呼の時代よりも更に古いというのだ。彼によると、ここには5人の人物が埋葬されていて、AD180190年頃の物だと言う。……とすると、前方後円墳の始まりも、もっと古いと言うことなのか?

現在の定説では、前方後円墳が造られ始めたのは三世紀の半ば、つまり、ちょうど卑弥呼が死んだころである。よって、時代的にちょうど重なる纏向の箸墓古墳が、卑弥呼の墓の候補にされていたのだ。

後で、考古学者に聞いた事だが、箸墓古墳からは特殊器台が出土していると言う。特殊器台は吉備地方に特有の物だが、吉備では二世紀代から出土しているらしい。出土物から考えると、箸墓古墳が2世紀末の物としても矛盾はないわけである。

又、箸墓古墳は、元々円墳だった物が後に前方後円墳に、改築されたと言う説もあるらしい。その場合は、弥生の墳丘墓が、前方後円墳の流行とともに、前方後円墳の形に改築されたとも考えられる。

だが、もし本当に箸墓古墳が卑弥呼の時代より古い前方後円墳だとすると、定説と真っ向から対立する事になる。つまり古墳時代と邪馬台国が完全に重なってしまうわけだ。邪馬台国は弥生時代ではなく、古墳時代と言うことになってしまう。

最近、箸墓古墳の周囲から大規模な周濠跡が発見され、箸墓古墳が、後の大王墓につながる構造を持っていたことが確認され注目されている。しかし、マクモニーグルの透視によると、卑弥呼の墓ではなかったことになる。


箸墓古墳到着

 


箸墓古墳

 


古墳の透視

 



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作成:2008年10月15日 権藤正勝