この透視は、邪馬台国と卑弥呼の調査を行っている時に補足的に行われたものである。透視の対象は、有名な飛鳥の石舞台である。ちなみに飛鳥とは、奈良県明日香村一体を指す地名で、数々の巨石遺構や古墳、天皇陵が有る事で知られている。有名な、高松塚古墳やキトラ古墳も飛鳥にある。
調査スタッフが向かった石舞台は、恐らく飛鳥でも最も有名な場所のひとつだろう。盛り土が剥ぎ取られ、巨石で出来た横穴式の玄室がむき出しになった古墳である。玄室は長さ7.6メートル、幅3.5メートル、高さ4.7メートルあり、30個ぐらいの巨石が組み合わされて作られている。天上石だけでも77トンと推定されている。
もともとは、方墳か上円下方墳だったものが、故意に盛り土を剥ぎ取られ、今の姿になったと考えられている。築造は、6世紀末から7世紀の初めとされる。この付近は、島の庄と呼ばれ、古代の有力豪族である蘇我氏の領地だった。更に、桃原と言う地名も残っている事から、桃原墓に埋葬されたとされる蘇我馬子の墓だと推定されている。近年、石舞台遺跡に隣接する島庄遺跡から、蘇我馬子の邸宅跡と思われる建造物群も発見されている。
石舞台に着くとマクモニーグルは、興味深そうに石舞台の周りを回っていた。さすがに、巨大な石組みに圧倒されているようだった。調査スタッフは、このときは純粋に観光気分で飛鳥を訪れたわけで、特にマクモニーグルに透視を期待しているわけではなかった。しかし、マクモニーグルは、石舞台の玄室の中に入ると直ぐに透視を始めていた。
彼は、しきりに石に手を付いて考え込んでいるような、仕草をしていた。彼は、現場で直接行う透視を「サイコメトリー」と呼んでいる。サイコメトリーでは、ターゲットに直接触れる事が重要みたいである。
さて、マクモニーグルが「サイコメトリー」で透視したところによると、石舞台には一人の非常に重要な人物を中心に6〜8人の人物が埋葬されていたらしい。大きな石の仕切りみたいな物があり、遺体は木の棺に埋葬されていて、多くの土器が見えると言う。
こうして単なる観光のつもりでやってきた飛鳥では、マクモニーグルによるサイキックツアーが始まった。ガイドブックや文献を見る事もなく、すらすらと説明を始めるのである。
意図は良く分からなかったが、「日本には、遺体を土器の壺に入れる事もあるのか?」と、マクモニーグルに質問された。彼には、そのような物が見えていたのだろう。
私は、「古い時代の九州で行われていた」と答えた。私の記憶には、弥生時代の九州では、甕棺と呼ばれる大きな壺に遺体を埋葬した事があったのだ。するとマクモニーグルは、「この古墳もずいぶん古いものだ。時代的には大体1300年〜1400年ぐらい前の物だ」と言った。
私は、石舞台が定説では蘇我馬子の墓とされている事は知っていた。しかし、正確な年代は、この時は覚えていなかった。後で、調べてみて初めて6世紀末から7世紀初頭の物とされている事を知った。年代的には、この時のマクモニーグルの透視と完全に一致する。・・・・・・と言う事は、やはり石舞台は、定説どおり蘇我馬子の墓となるのだろう。
さらにマクモニーグルは、石舞台の横に復元された石棺を見て、「こんな物はなかった。エジプトを意識しすぎだろう」と説明した。実際、石舞台古墳からは石棺は発見されていない。凝灰岩の破片が見つかったことより、想像で石棺を復元したものらしい。
石舞台を構成する石を持ってきた場所も、マクモニーグルには分かるらしい。石は、そんなに遠くない所から運ばれたと、その方向を指差した。マクモニーグルが正しい場所を示したのかどうかは確認できてないが、石舞台の石は、脇を流れる冬野川を3キロほど上流に遡った多武峰の麓にある、談山神社方面から運ばれてきたらしい。
そして帰り際には、驚くべき事を言い出した。石舞台の少し上の高台に見える墓地を指差し、「あそこの墓地の直ぐ真下に、未発掘の古墳がある」と指摘したのだ。ちょうど、石舞台と同じぐらいの規模の石室を持つらしい。
もし本当に石舞台のすぐ近くに、未発掘の古墳があるとしたら凄い事である。しかも、石室の規模が石舞台と同じぐらいだと言う事は、相当な権力者の墓になる。残念ながら、この件については現在までに事実関係の確認は取れていない。
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